Scene 01
レンの説明は正しかった。答える問いだけが違った。
土曜の夕方、HIBI SELECT本店には商店街側の窓から薄い光が入っていた。株式会社イーストリングシステムズで総務課長を務める高橋 俊は、中央台の焦げ茶色の仕事鞄を持ち上げ、値札より先に肩の位置を見た。
平日はノートPCと書類を持って、本社と別拠点を行き来する。そう話した高橋を、レンは少し離れた位置で待っていた。
高橋は値札を戻し、鞄へ目を残したまま言った。
高橋
良い鞄ですね。でも、高いですね。
レンは、その一言を予算の話だと受け取った。値下げはできない。ならば、価格の理由をきちんと伝えようと思った。
レン
はい、安い価格ではありません。革の取り方と、持ち手に負荷がかかる部分の縫製に手間をかけています。
長く使えるよう、修理の相談も受けられる商品です。
高橋は説明を遮らなかった。持ち手をもう一度確かめ、「理由は分かります」と答えた。けれど、鞄を台へ戻した。
高橋
値段の理由を疑っているわけではないんです。
前にも、長く使えると言われた鞄を買いました。でも、ほとんど使わなくなりました。
レンが答えたのは、なぜこの鞄がこの価格なのかだった。高橋が止まったのは、その価格を払っても、今度こそ使うのかというところだった。
Scene 02
比較していたのは、安い鞄ではなく、使わなかった過去だった。
レンは素材説明を続けなかった。高橋が言った「使わなくなった」を、飽きた、面倒だった、選び方を失敗した、とも決めなかった。
レン
すみません。値段の理由を先に重ねてしまいました。
高いと感じた時、何と比べていたのでしょう。前の鞄を使わなくなった場面から伺ってもよいですか。
以前の鞄は、店頭で空のまま肩へ掛けた時には軽かった。実際にはノートPC、厚い書類ファイル、折り畳み傘、充電器を入れる。電車で立つ日は肩からずれ、改札で社員証を出すたび床へ置いた。雨の日に一度使わなくなると、軽い布製の鞄へ戻り、そのままになった。
高橋
安い鞄と比べて、高いと言ったのではありません。
また数回で使わなくなるなら、この値段を払うのが高いと思ったんです。
値札同士ではなく、棚に残った鞄と、これから使う自分の一日が比較されていた。
レンは「毎日使えば一日あたりは安い」と回数を置かなかった。未来の出番は、まだ高橋も店も知らない。
レン
前と同じ荷物に近づけて、持つ、歩く、置く、社員証を出すところまで試してみませんか。
合わない点があれば、今日は買わない前提で確かめます。
高橋がうなずいた。レンは心を読んだ印ではなく、本人の返事を受けて試用台へ向かった。声をかける前の観察だけでは届かなかった比較対象が、高橋の言葉で初めて見えた。
Scene 03
肩には合った。開口部は、通勤に合わなかった。
商品部バイヤーの小林 直樹は、個人のPCや書類を預からずに試せるよう、重さの異なる無地の袋とA4判の板を出した。
小林
普段の中身に近い重さを、高橋さんに選んでもらいます。
分からない重さは埋めず、店内で安全にできる動作だけにしましょう。
高橋が選んだ重りとA4板を、レンが一つずつ確認して鞄へ入れた。折り畳み傘の代わりには、濡れていない同じ大きさの空ケースを使う。商品の寸法、耐荷重、店内の安全手順を先に確かめ、上限が分からない物は試さない。痛みや違和感が出た時は、その場で止める。
高橋は鞄を肩へ掛け、店内を短く歩き、ベンチの横へ置き、社員証を出した。
空の時には見えなかったことが二つあった。再現した重さで短く歩いた範囲では、持ち手が肩からずれにくい。一方、上部は大きく開く。混んだ電車で書類を見せたくない高橋には、付属の留め具だけでは不安が残った。
長時間の通勤、混雑、雨天でも同じとは限らない。レンは良かった方だけを試用票へ書かなかった。
レン
肩からずれにくいことは、今の重さと歩いた範囲で確認できました。
開口部は、通勤で求める閉じ方に足りません。今の鞄を続ける、口が閉じる軽い別商品、この鞄、今日は買わない。四つを並べてもよいですか。
高橋
お願いします。ここまで試したから買わないと申し訳ない、と今までなら思っていました。
でも、使わない鞄を増やす方が困ります。
高橋は、その日は買わないと決めた。レンは戻る日を尋ねなかった。商品名、外寸、重さ、開口部、修理相談、現在の返品・交換条件を印刷した無記名カードを渡し、条件の確認日を記した。使用回数や迷いは、会員メモへ入れなかった。
レジの販売件数は増えない。試用票には「当日非購入」と、合った肩、合わなかった開口部、まだ試せない通勤条件が同じ濃さで残った。
Scene 04
素材の価値より先に、向く場面と向かない場面を書く。
閉店後、小林は商品カードの素材、製法、修理の欄を消さず、その手前へ「向く場面」「向かない場面」「店内で試せる動作」を足した。
小林
素材や作り手の説明は、価格の根拠として必要です。
でも、物が長く持つことと、高橋さんの出番が続くことは分けておきます。
レンは売場ノートに、最初に話した素材説明と、高橋から返った「理由は分かる」を並べた。その下へ、以前の荷物、困った動作、店内で試した範囲、適合、不適合、当日非購入を時刻順に書いた。
ソウタ
価値説明を消さなくていい。
先に、使う場面を確かめよう。
対応する特徴だけを開く。合わない特徴も残っているね。
ソウタは答えを書き足さず、レンの記録と試用票を読み合わせた。レンは「価格反対」という分類を削除した。残したのは、高橋が言った比較対象と、店内で観察できた動作だけだった。
商品カードの素材、寸法、重さ、手入れ、修理、保証には、それぞれ出どころと更新日が付いた。未来の使用回数や再来店予定を書く欄は作らなかった。
Scene 05
三日後、高橋は古い鞄で戻った。
レンは売場ノートの見出しを「高いと言われた時」とだけ書いた。高橋の名前は入れず、話した事実、先に説明したこと、聞き直して分かったことを分けた。
レンが売場ノートに残した一文価格を小さく見せる前に、その商品が使われる一日を小さく試す。
三日後の夕方、店の扉が開いた。高橋は新しい鞄ではなく、使わなくなりかけていた布製の仕事鞄を肩に掛けている。前回より少し膨らみ、持ち手には社員証が付いていた。
高橋
前回、肩は合いましたが、口が開くのが気になりました。三日、今の鞄を使ってみました。
買いに来た、とまではまだ言えません。
でも、困った場面が分かりました。前回の比較を、続けてもいいですか。
レン
もちろんです。今日は、三日で分かったことから始めましょう。
レンは「再来店」「購入見込み」と書かなかった。高橋が古い鞄から取り出した物を、本人と一緒に試用台へ置いた。
三日前、レンは値札の理由を説明していた。今、台にあるのは新しい鞄と安い代替品ではなく、高橋が三日使った古い鞄の中身だった。
マイ商談ノート
今日、残しておく候補
気になった項目を、この端末のブラウザへ保存できます。ログインや送信はありません。
まだ保存していません。
分かったのは、三日の間に困った場面があったことと、比較を続けたいことまでだった。この鞄を買うのか、古い鞄を使い続けるのか、別の商品を選ぶのかは、まだ値札の横に置かれていない。


