Scene 01
拍手の横に、未添付が三つあった。
金曜の午後四時五十二分。リードクラフト商談室に、電子契約完了の通知音が鳴った。
吉岡 拓海は立ち上がらなかった。通知を一度閉じ、もう一度開く。契約番号を人さし指で追い、金額、対象範囲、契約権限者の署名を照合した。
吉岡
完了しました。
青葉設備の別部署、申請業務と管理者向け運用支援。来月開始の枠で契約成立です。
ランキング首位の吉岡が任された大型競合案件は、長い二社選定を終えた。ブライトルートではなく、リードクラフトが選ばれた。
松永が最初に手をたたいた。営業チームへ拍手が広がり、吉岡はようやく椅子から立った。
松永
よく取った。今月の大型案件、文句なしの成果だ。
ミナトも拍手した。うれしかった。
拍手の間に、モニターが契約の詳細画面へ切り替わった。上段には緑の完了印。その下に「利用者一覧」「管理者登録」「初回説明会」と並び、三つとも灰色の「未添付」だった。
ミナトは拍手を止めきれないまま、画面を指した。
ミナト
吉岡さん、おめでとうございます。
この三つは、契約後に届く予定ですか。
吉岡は完了印を消さず、その下まで画面を送った。
吉岡
選定事務局とは、開始前に決める話になっています。
契約の金額と範囲は、ここで確定です。
拍手は終わった。緑の印と三つの空欄だけが、同じ画面に残った。
Scene 02
午後五時までの一枠は、誰の期限だったか。
ミナトは三つの空欄を見ながら、その日の昼に行われた最後の共通進行確認を開き直した。青葉設備の選定事務局、リードクラフト、ブライトルートが同じ画面を見た記録だった。
未決事項を訂正できる進行へ変えた選定で残った運用責任、初月支援、費用について、事務局は両社の回答を受領していた。
青葉設備・選定事務局社内の選定は本日中に終えます。来月開始を想定していますが、準備状況の最終確認は契約後に行います。
ブライトルートの桐谷 怜司が、画面の二つの日付にカーソルを置いた。
桐谷
本日が御社の選定期限で、来月開始は現時点の予定。
開始日まで今日確定する、という意味ではないですね。
事務局担当者は「その理解で合っています」と答えた。
次に、吉岡がリードクラフトの実施枠を共有した。
吉岡
来月開始を支援できる枠は、今日の午後五時まで一枠を確保しています。
期限後に次に確保できるのは二か月後です。
来月開始が必須でなければ、今日この枠を選ぶ必要はありません。
一枠は、他案件との調整で実際に確保していたものだった。桐谷は顧客側の期限と同じ行へ入れなかった。
桐谷
それはリードクラフト社の供給条件です。
青葉設備様の選定期限とは分けて記録してください。
事務局は、社内選定の期限は今日、開始日は契約後の準備確認で変更できると読み上げた。選定結果には、支援範囲と来月の実施可能性が判断材料として残った。どちらか一つだけが決定理由だとは書かれていない。
ミナトは議事録の二行を、指で交互になぞった。
選定期限――青葉設備。
実施枠の期限――リードクラフト、午後五時。
今日選び、開始日を後で調整する余地も、記録の中に残っていた。
Scene 03
瀬戸の手は、完了印ではなく空欄で止まった。
午後五時を八分過ぎたころ、カスタマーサクセス部の瀬戸 麻衣がノートPCを抱えて入ってきた。来月の支援体制を組むためだった。
瀬戸は吉岡へ頭を下げ、契約の詳細画面を開いた。
瀬戸
吉岡さん、受注おめでとうございます。
範囲と支援枠は確認できました。
瀬戸の指は緑の完了印を通り過ぎ、「利用者一覧」の未添付欄で止まった。
瀬戸
最初に使う人の役割と人数、管理者、準備するデータ。
先方の確認者と、いつ分かるかを教えてください。来月の支援を組むのに必要です。
吉岡は昼の議事録を開き、選定事務局の「契約後に確認」を示した。
吉岡
開始前の打ち合わせで決める想定でした。
管理者向け支援も初回説明会も、契約範囲には入っています。
未確認なのは分かります。でも、契約を取った判断まで間違いだったようには扱ってほしくありません。
ミナトの手が、閉じかけたノートの上で止まった。拍手した自分まで、吉岡の反対側へ移る気がした。
それでも、画面の三つは未添付のままだった。
ミナト
契約は成立済みです。そこは動かしません。
そのまま残して、開始に必要な未確認を横へ置けませんか。
瀬戸は利用者一覧の添付ボタンを押さず、メモ欄を開いた。
瀬戸
今は氏名ではなく、役割と人数で足ります。
実データも、種類、管理者、承認された経路と権限、バックアップ、復旧、削除を確認するまで受け取りません。
個人情報を集めることも、契約を作り直すこともせず、まず空欄の所在だけを残す。瀬戸は、青葉設備の確認者とリードクラフト側の担当を書くため、白いカードを三枚机へ置いた。
ソウタがホワイトボードの前に立ち、緑のマーカーを手に取った。
ソウタ
成約は消さない。
開始の事実は、別の列で見る。
Scene 04
緑の印を消さず、右に空欄を残す。
ソウタはホワイトボードを縦に割った。左へ「契約で確定」、右へ「開始前に未確認」と書く。
左には、契約番号、金額、範囲、契約権限者の署名。最後に「二社選定・リードクラフト受注」と加えた。緑のマーカーを置くと、吉岡が左の列を指した。
吉岡
ここは、評価にも残りますか。
ソウタ
残す。開始前の空欄で、受注を取り消さない。
右には、瀬戸が三枚のカードを並べた。
最初に使う人の役割と人数。管理者。準備するデータ。カードの端に、青葉設備の確認者、リードクラフト側の担当、次に答えを確かめる日を書いた。初回説明会の内容と支援担当は、その三つを確かめて組むと添えた。
契約正本、利用者情報、営業側の解釈は、同じ閲覧範囲には置かなかった。三枚のカードには氏名も実データもない。
吉岡は今度は右の列を見た。
吉岡
午後五時までの一枠を伝えたことが、原因だと残すんですか。
ミナトは首を振り、昼の議事録を二列の下へ置いた。
ミナト
期限があったことと、その日に契約したことは残します。
でも、そこから原因までは書けません。
ミナトはノートの調査欄へ、DharとNowlisの「時間圧力と消費者の選択先送り」と、Ku、Kuo、Kuoの「希少性の種類と消費者の購入意向」を一行ずつ貼った。その下へ「日本の法人向けシステム契約、開始準備、この案件の後の結果は直接検証していない」と書き、原因欄は作らなかった。
瀬戸は二列を青葉設備の指定窓口へ送り、分からない項目は空欄のまま返してよいと添えた。三枚の状態は「顧客確認中」になった。
Scene 05
翌朝届いたのは、変更の完了ではなく申出だった。
翌朝、選定事務局から返信が届いた。
青葉設備・選定事務局からの連絡契約の範囲と金額は維持したいと考えています。一方、利用部門の対象者、管理者、準備データがそろっていません。来月の導入開始日の変更を申し入れます。課金、変更手続、支援枠への影響を確認のうえ、日程を再設定させてください。
吉岡はメールを読み、昨日の完了画面を開いた。契約番号も金額も、競合選定に勝った記録も消えていない。
瀬戸は返信ボタンを押さず、変更申出を契約窓口へ回した。
瀬戸
受け取ったのは開始日変更の申出です。まだ変更の合意ではありません。
課金、変更手続、確保した支援枠、変更権限と書面化を、契約正本に沿って確認します。
ミナトはホワイトボードの左を触らなかった。右の列を開き、「顧客確認中」の横に届いた時刻を書いた。
利用者の役割と人数、管理者、準備データの三枚は、中身が空欄のままだった。ミナトは状態だけを「開始日変更の申出・影響確認中」へ変えた。
吉岡
契約は、取れたままですよね。
ミナト
はい。金額も範囲も、受注も変わっていません。
同時に、変更後の開始日はまだ決まっていません。
期限を伝えたからか。選定事務局と利用部門の連携か。契約後に決める想定だったからか。原因欄には、どれも入れなかった。
昨日の緑の完了印は残った。その右で、利用準備の空欄も消えずに残った。
三週間後、同じ案件から「契約終了のご相談」が届く。緑の完了印と三つの空欄は、その朝もう一度開かれる。


