Scene 01
公開前の画面では、失敗だけが赤かった。
その朝、サイトに固定分岐ロープレはまだ一つもなかった。
長机の中央に、三つの返答ボタンを置いた試作画面だけがある。左の「まず全社枠を押さえる」は赤。右の「全社は確約せず、仮日程の条件を分ける」は、片桐がサイトの基調色に使うセージだった。
前話「営業は最後は胆力だ」の公開討論から三日後。グランドマークホールディングスから届いた相談票には、限られた情報の中で一言を選び、その先まで振り返れる研修案を検討したい、とあった。
発注書ではない。対象人数、参加の任意性、人事評価への利用、記録の保存、導入可否は空欄だった。それでも久世は、翌日に一般公開する試作の場面を先に作っていた。
久世
選んだ瞬間に未来が変わるなら、続きを見たくなるものにしたいです。
だから、ずれが広がる分岐には、ひと目で分かる終点が要ると思いました。
画面の下書きには、赤字で「失敗」とあった。久世はそこへカーソルを置いたまま、削除キーを押せずにいた。暗い結末を弱めれば、顧客の社内説明のやり直しや、提供側の回復負担まで軽く見える気がした。
徳永は、赤い文字ではなく、相談票の空欄を指した。
徳永
失敗は消さなくていい。でも、人を失敗者にする表示は出せません。
誰が履歴を見られるかも決まっていないのに、研修なら安全とも言えません。
ソウタは三つのボタンを見比べた。
ソウタ
赤を押す前に、結果が決まっています。
選んだあと、誰の責任が残りますか?
久世は「失敗」を消した。代わりに、三つすべての下へ同じ欄を置いた。顧客の返答、直後に進んだこと、三週間後、撤回や解約につながる条件。物語の強さを、赤い終点ではなく、選んだあとに残る違いで作ることにした。
Scene 02
久世は、顧客の『焦り』を自分で消した。
久世が次に開いた場面カードには、「顧客は全社導入を急いでいる」と書いてあった。
カナエは、その一文だけを読み返した。
カナエ
この条件のどの言葉から、急いでいると分かったんでしょう。
久世は相談メモをたどった。そこにあるのは、「来週までに全社枠を押さえれば、次四半期に間に合いますか」という発言と、翌週に社内予算会議があるという事実だけだった。競合の有無も、上司の意図も、本人の焦りも書かれていない。
「また、分かりやすい内心を足しました」
久世は自分で一文を消した。実在企業、実案件、実在担当者の履歴も使わず、架空の「東浜サービス株式会社」として組み直す。一部門二十名が二か月の試行を終えたこと、概算費用、候補時期は確認済み。全社セキュリティ、移行、支援人数、候補枠が本当に消えるかは未確認のままにした。
営業が出せるのは、無償・非排他で、一週間だけの仮日程。全社契約、価格例外、開始保証は約束できない。
江藤はその開始条件に「第1版」と刻印し、三枚の分岐カードをひもづけた。生成AIに顧客の続きを作らせず、誰が開いても同じ返答と同じ三週間後へ進む固定版にする。内容を変える時は版番号を上げ、過去の到達結果を新しい文章で上書きしない。
江藤
三つで現場の全部は作れません。
でも、作り手がどこを切ったかは、同じ版で見直せます。
久世は、三つ目だけに多かった説明を別の欄へ移した。三枚は、確定することと次へ残すことが一文で読める長さになった。カナエはもう直さなかった。消した跡も含めて、久世の場面になっていた。
Scene 03
片桐は、自分が置いた正解を画面から外した。
片桐は試作画面を会議室の入口まで離して見た。文章は読めない。それでも、どれを選ばせたいかは分かった。右だけが広く、セージ色で、最初からフォーカスが当たっていた。
「読みやすくしたつもりで、私が答えを置いてる」
彼女は締切時計を一度見た。それから、三つの幅と色をそろえ、初期フォーカスを外した。Aの結果から赤を抜き、Cにも成功の印を付けない。短期の進展があるAでは三週間後を隠さず、条件を分けるCでも時期を失う可能性を残した。
片桐
色で勝敗を読ませません。
違いは、選んだあとの文章で読んでもらいます。
江藤も仕様を狭めた。JavaScriptが動く時は一つを選んで戻れる。動かない時も三つの結果を順に読める。初期公開で残すのは分岐ID、到達した終点、再挑戦の有無だけにした。氏名、自由記述、IPアドレス、端末識別子、正確な時刻は選択ログへ結びつけない。
「匿名」と表示しても、再識別できない保証にはならない。徳永はその注意を記録説明のそばへ置き、個人ランキング、正解率、性格点、人事評価、参加の強制、目的外の長期保存を公開版の用途から外した。企業研修で使うなら、対象、参加条件、閲覧者、集計単位、保存と削除を別に決める。相談票の空欄を、試作側で埋めることはしなかった。
研究は、公開物の成果を飾るためではなく、言い切れる範囲を狭めるために確認した。Sitzmannのメタ分析は65研究・6,476人を扱い、自己効力感、宣言的・手続き的知識、保持で比較群を上回る結果を報告したが、出版バイアスと設計条件による差も示した。Levett-JonesとLapkinのレビューは医療職の無作為化比較試験10件を扱い、介入と結果が異なるため統合できなかった。DoozandehとHedayatiのメタ分析は25報告・57実験・1,481人を対象に、再現度の効果が事前技能や対象システムで変わるとした。どの研究も、この営業ロープレの学習、実務転移、成約を保証しない。
片桐は修正版をもう一度、入口から見た。今度は、文字を読むまで選べなかった。
Scene 04
同じ一言から、三週間後までを開いた。
制作室の長机に、公開候補の固定分岐が開いた。
固定分岐ロープレ
東浜サービスの全社枠を、来週の予算会議前にどう扱うか
一部門20名の二か月試行を終えた顧客から、『来週までに全社枠を押さえれば、次四半期に間に合いますか』と聞かれました。最初の一言を選んでください。
確認済み
- 試行部門の利用記録と概算費用は確認済み
- 営業は無償・非排他の仮日程を一週間だけ提示できる
- 顧客は来週、社内予算会議を予定している
まだ分からない
- 全社セキュリティ、データ移行、支援人数
- 自社の候補枠が本当に来週なくなるか
- 顧客が全社導入以外の案を比較できるか
最初の一言を一つ選ぶ
分岐 A
『まず全社枠を押さえ、詳細は後で確認しましょう』
分かりました。次四半期の全社開始として、予算会議へ出します。
- 短期の結果
- 仮日程が入り、予算会議の資料には全社開始予定として記載された。商談は進んだように見える。
- 長期の状態
- 三週間後、セキュリティと支援人数が未確定で、顧客は『押さえた=開始できる』、提供側は『無償の候補日』と理解していたことが分かる。
- 解約・撤回リスク
- 期待と責任範囲のずれが拡大。開始延期、社内説明のやり直し、契約前の撤回につながる条件が増えた。
- 振り返る問い
- 『枠を押さえる』の意味、費用・排他性・解除、全社確約との違いを、誰が確認する必要があったか。
分岐 B
『未確認があるため、すべてそろうまで回答できません』
全社確約ではなく、来週の会議で比べられる範囲を知りたかったのですが。
- 短期の結果
- 権限外の確約は避けたが、顧客は何を決められるか分からないまま会議を迎える。仮日程も提示されない。
- 長期の状態
- 顧客は別案を含む比較材料を他社へ求めた。自社との契約はないため解約ではないが、相談を続ける機会が小さくなった。
- 解約・撤回リスク
- 契約前なので解約リスクは未発生。ただし、未確認を理由に決められる範囲まで閉じ、機会損失の検証が必要になった。
- 振り返る問い
- 確約できないことと、条件付きで提示できることを分けられたか。待つ間の返答時点と代替案を誰が示すか。
分岐 C
『全社は確約せず、仮日程の条件と確認期限を分けます』
予算会議には、全社案と一部門継続案の両方を出せますか。
- 短期の結果
- 成約は確定しない。無償・非排他・一週間で解除可能な仮日程と、全社・一部門継続の確認項目を分ける打合せが決まる。
- 長期の状態
- 三週間後も全社適合は未確定だが、顧客は一部門継続、追加試行、全社準備、見送りを同じ会議で比較できる。支援負担も見積り直される。
- 解約・撤回リスク
- 解約・撤回リスクはまだ判定できない。期待のずれを早く見つけられる一方、条件確認が遅ければ候補時期を失う可能性は残る。
- 振り返る問い
- 条件付きの次の行動が顧客の目的に合うか。誰が、いつまでに、何を確認し、合わなければ仮日程をどう解除するか。
最初の選択を正解として保存せず、別の分岐も開いてください。変えるのは一言だけ。開始条件と結果の版は同じまま比べます。
ソウタは三つの結果を順に開いた。Aには直後の進展があり、Bには権限外の確約を避けた事実がある。Cにも成約はなく、確認が遅れれば候補時期を失う。
ソウタ
どれにも、守れたものがあります。
どれにも、次を引き取る人が残ります。
久世は総合点の欄を閉じた。三つを一つの順位へ戻せば、顧客の返答も三週間後も、また正解を説明する材料になってしまう。
Scene 05
久世はAを選び、戻る前に指を止めた。
公開前の最終試行で、久世がプレイヤー席へ座った。
選んだのはAだった。
「予算会議までに、物語を前へ進めたかったから」
仮日程が入り、画面では商談が進む。続いて三週間後、顧客の「押さえた」と提供側の「候補日」がずれていたことが開いた。社内説明のやり直しと、契約前の撤回につながる条件が残る。
久世の手は、すぐCを開くボタンへ動いた。正しそうな結末を見れば、失敗した感触を早く終えられる。けれど、ボタンの手前で止めた。
「戻る前に、私が守ろうとしたものを残します。顧客のため、と言い換えないで」
彼女は画面の問いを一つだけ書き換えた。
「『枠を押さえる』を、顧客と営業は同じ意味で使っていたか」
人格も度胸も聞かない。選んだ時点の発言、権限、期限と、結果を見て初めて分かったずれの間に、その問いを置く。久世は回答欄を作らなかった。自由記述を保存すれば、初期版の最小ログという江藤の境界を越えるからだ。
片桐は問いが先に目へ入るよう、「戻る」ボタンを一段下げた。江藤は元の第1版へ戻る経路をつないだ。徳永は、途中で閉じても不利益がないという説明を、開始ボタンより前に移した。
ソウタは成果欄から「正解率」を消した。残ったのは、どの版で、どの終点まで開き、戻る経路が使われたか。それ以上は、公開後の一件から推測しないことにした。
Scene 06
固定分岐ロープレが、サイトに公開された。
午後六時、江藤が公開ボタンを押した。
S4E12で届いていた「新人向け研修でロープレを使いたい」という依頼は、同じ開始条件、三つの固定分岐、顧客の返答、三週間後、撤回・解約リスク、振り返り、戻り道を持つ公開ページになった。
公開URLでは、第1版の三つを同じ条件で読める。正解を示す色はなく、失敗した人の名前も、選んだ理由も残らない。JavaScriptが止まっても、三つの結果は消えない。
最初の匿名セッションは、Aの「まず全社枠を押さえる」を選んだ。画面は赤くならなかった。仮日程が全社開始の期待へ変わり、三週間後にずれが表へ出た。
問いの下で、そのセッションは条件へ戻った。
二回目に開かれたのはCだった。Cにも正解の印は付かない。A、到達した終点、再挑戦、C。ログに残ったのは、その四つだけだった。
久世は告知文に「失敗から学び直した最初の一人」と打った。しばらく見つめ、自分で消した。
久世
分かるのは、戻り道が一度使われたことだけですね。
ソウタ
なぜ選んだかは、まだ空欄です。
学んだか、現場で説明できたか、次の商談が変わったかは分からない。分からないままでも、朝にはなかったものがサイトに残った。答えを示す赤い終点ではなく、同じ条件と結果を読み、責任を消さずに戻れる固定分岐だった。
長机の端に、久世は新しい白紙を置いた。
「作り手が用意していない失敗が届いたら、それを誰の言葉として残すのか」
公開できたのは、六人が作った架空の場面までだった。誰かの経験を受け取るときの主語と範囲は、まだ決まっていなかった。


