Scene 01
最初のネームには、山田の顔が一つしかなかった。
「四冊のノート」の表紙ができた翌週、久世はレンの売場ノートを最初の漫画に選んだ。
開かれていたのは、HIBI SELECTで山田に声をかけた日のページだった。二つの革小物。レンの説明。「見てるだけです」という返事。半歩ぶん開いた距離。ノートには、見えた順に短く残っている。
久世はその記録から四コマを作り、最後のコマだけ黒く塗った。
久世の最初のネーム二つの商品。「こちら、人気のシリーズで」と近づくレン。
半歩下がる足。「見てるだけです」。
レンの内心――嫌がられた。
レンは四コマ目をしばらく見たあと、首をかしげた。
レン
私からは、本当にこう見えていました。
でも、この描き方だと、山田さんが私を嫌がって逃げたことになりませんか。
久世は「嫌がられた」を赤鉛筆で囲み、横へ「レン」と書いた。その先にあった「客は声かけを嫌った」という理由欄には、鉛筆を置いたまま手を止めた。
久世
「嫌がられた」は、レンさんの記憶です。
山田さんの理由は、どこにありますか。
レンには答えられなかった。
二度目の来店で、山田が昇進祝いの贈りものを探していることは聞けた。けれど、最初の「見てるだけです」の瞬間に何を考えていたかまでは、聞いていない。
久世は理由欄を消した。四コマ目は残し、その横に「この場面は誰から見えたものか」と書いた。
Scene 02
半歩は見えた。半歩の理由は見えていない。
翌日の閉店後、レンはネームをHIBI SELECTに持ち帰った。黒田と早川は、売場ノートと漫画を机に並べた。
黒田が最初に確認したのは、漫画が面白いかではなく、店と顧客をどこまで特定できるかだった。棚の形、革小物の色、来店時期。名前を変えても、山田本人なら自分の場面だと分かる。
黒田
山田さんが選べないなら、この場面は使わない。
断られた時は、店の責任で止めます。
早川は、以前の自分の言葉を思い出していた。「失敗しないものを探している顔だった」とレンに話したことがある。
早川
あの時、私はそう見えたと言った。でも、それも私の解釈なんだよね。
見えていたのは、山田さんが店全体を見て、二つを持ち比べて、値札と箱を確認していたことまで。
早川は「失敗しないものを探している顔だった」と書いた自分の付箋を剥がした。代わりに、二つを持ち比べた手、値札、箱、棚へ戻った視線を、赤鉛筆で一つずつ囲む。
レンが「心理的リアクタンス」と書いた小さな付箋を半歩の横へ置こうとすると、早川はネームの裏へ返した。半歩だけでは、驚いたのか、急いでいたのか、別の商品を見ていたのかも分からない。
レン
私が嫌われたと思ったことと、山田さんが私を嫌ったことは、同じではないんですね。
レンは「嫌がられた」の吹き出しから山田へ伸びていた線を消し、理由欄へ「未確認」と書いた。
Scene 03
山田は、残す言葉を自分で選んだ。
次に山田が来店した日、レンは買いものの途中で取材を頼まなかった。会計が終わり、商品を選ぶ時間と支払いがすべて済んでから、黒田と確認した一枚の案内だけを渡した。
案内には、最初の来店記録を漫画にしたいこと、協力しなくても接客は変わらないこと、公開前に残す言葉と伏せる情報を選べることだけを書いた。
レン
今日はお返事いただかなくて大丈夫です。
違うと思ったら、理由を書かずに断ってください。
山田はその場では答えず、案内を鞄に入れた。数日後、公開前に内容を確認できるなら話してもよい、と店へ連絡があった。
店の落ち着いた時間に、黒田が同席し、レンは最初のネームを見せた。山田は四コマ目の「嫌がられた」を読み、少し考えてから言った。
山田
レンさんが嫌だったわけではないんです。
あの時は、贈る相手のことを考えるほど、何を選んでも間違える気がしていました。
贈るのは、昇進した同僚だった。高価すぎれば気を遣わせる。軽すぎれば、お祝いの気持ちが伝わらない。相手の好みを詳しく知っているわけでもない。売場には良さそうなものがいくつもあり、どれかを勧められた時に「これでよい」と決める準備ができていなかった。
山田
「人気です」と聞くと、選ばない理由を説明しないといけない気がして。
でも、誰への贈りものかも、何が分からないかも、まだうまく言えませんでした。それで「見てるだけです」と。
山田がその日に話したのは、レンを遠ざける理由ではなく、贈る相手を雑に決めないための時間だった。早川の見立てだけでは見えなかった「高すぎても、軽すぎても違う」という二方向の心配が、山田自身の言葉で初めて届いた。
レン
私は、声をかけた時刻だけを直そうとしていました。
山田さんが選んでいた時間は、見えていませんでした。
山田は「全部を説明できたわけではないです」と言ってから、残してよい発言へ丸をつけた。会社名、同僚を特定できる情報、購入商品には線を引いた。
黒田は山田の線とは別の色で、棚の形と来店時期を伏せた。山田が自分の発言を残せても、同僚や店舗の情報まで公開できるわけではない。最後の掲載判断は、黒田と編集室に残った。
Scene 04
久世は、同じ一言の左右に二枚の紙を置いた。
編集室へ戻ると、久世は四コマを縦につないだテープを切った。白い紙を左右に置き、その中央へ同じ一言を挟んだ。
二つのページに残る同じ一言ありがとうございます。ちょっと、見てるだけなので。
左ページには、レンが自分で三つ書いた。良さを伝えれば選びやすいと思った。半歩で会話を閉じられたと感じた。山田の理由は知らなかった。
右ページには、山田が丸をつけた発言だけを久世が貼った。昇進した同僚への贈りもの。高すぎても軽すぎても違う。まだ選ばない理由を説明できなかった。
久世は左右を結ぶ矢印を引かなかった。山田の言葉は、レンの声かけが半歩を起こしたという因果の答えではない。レンの傷つきも、山田が否定したから消えるものではなかった。
久世
同じ場面に戻っても、一つの心にはしません。
左右の空白も、このまま残します。
レン
私が嫌われたと思ったことと、山田さんが私を嫌ったことは、同じではありませんでした。
久世は見開きの画像を山田へ送り、左右の順番と残した発言をもう一度確認した。返ってきた校正紙には、右ページの範囲だけ丸がついていた。
Scene 05
匿名コメントの隣に、次のノートが開かれた。
完成した見開きは、公開前の試読用プレビューに載せた。山田とレンが最終確認し、外部の試読者は個人を特定できない画面だけを見る。回答欄には、名前を書かなくてもよい。
翌朝、匿名のコメントが一件届いていた。
試読プレビューへの匿名コメント私も「見てるだけです」と言います。買う気がない時だけではありません。贈る相手を大切に思うほど、店員さんの質問にまだ答えられない時があります。
レンは、ページ上部の題名を見た。「声をかけた瞬間、お客様が逃げた」。あの日の自分には、山田が遠ざかったように見えた。その感覚は左ページに残っている。
レン
この方と山田さんが、同じ理由とは決められません。
でも「見てるだけ」に、一つの意味しかないわけではないんですね。
黒田はコメントを印刷したが、「接客基準」の綴じ込みには入れなかった。
黒田
一件で、声かけの基準は変えないよ。
売場ノートの隣に置いておこう。
早川は自分の売場メモに、「失敗しないものを探している顔」を書き直した。
早川
二つを持ち比べ、値札と箱を見ていた。
私は、失敗したくないように見えた。
早川が書き直した二行を見開きの左へ挟むと、久世は隣でミナトの商談ノートを開いた。正確な説明が重くなった日のページには、顧客の言葉より長い補足が残っていた。

