Scene 01
何か話さないと、商談が終わってしまう。
訪問先の小会議室で、先方の担当者が資料の同じページを見たまま黙った。
高瀬が尋ねたのは、「導入するとしたら、最初に誰の判断が必要になりそうですか」という一つの質問だった。
担当者はペンを置き、椅子の背にもたれた。視線は資料と窓の間を行き来している。それまで滑らかだった会話が止まり、壁時計の針の音だけが急に大きくなった。
同行していたミナトの頭には、言葉が次々と浮かんだ。
ミナト・内心
判断者が分からないなら、導入事例を足した方がいいですかね。
それとも、決裁の流れを説明した方が……。
口を開きかけたところで、隣の高瀬が資料から手を離した。急かす様子も、答えを引き出そうと見つめる様子もない。ただ、相手が次の言葉を選べる距離を保っていた。
カナエの同席と記録、記事利用の目的と範囲は、事前に先方へ伝えてある。会社や担当者、同席者を特定できる情報は残さない。カナエもまた、先方の内心ではなく、高瀬の手を見ていた。
やがて担当者が、ゆっくり話し始めた。
先方担当者
判断するのは私です。ただ、先に現場に聞かずに進めると、「また本部だけで決めた」と思われる気がして。
少なくとも、この場面で出てきた心配は、決裁権の有無だけではなかった。自分一人で決められても、現場を置き去りにしたくない。ミナトが用意していた導入事例を足していたら、その言葉が出る前に遮っていたかもしれない。
高瀬
では、判断の前に、現場の方が確かめたいことを一緒に整理してもいいですか。
高瀬は沈黙を破ったのではなく、沈黙のあとに出てきた言葉から、次の質問を選んだ。
Scene 02
高瀬は、ペンと資料だけを見ていた。
商談が終わると、ミナトはエレベーターを待ちながら息を吐いた。
ミナト
高瀬さん、あの沈黙、怖くなかったんですか。
僕なら、会話が止まったと思って説明を足してました。
高瀬
怖くないわけじゃないよ。
それに、待てば本音が出ると決まっているわけでもない。
高瀬は、担当者が資料を閉じなかったこと、視線が同じページへ戻ったこと、質問の直後にペンを置いたことを指でたどった。
それでも、考えていると断定はできない。質問が分かりにくかったのかもしれない。答えたくないのかもしれない。会話を終えたいのかもしれない。
高瀬
意味が分からないうちは、勝手に良い沈黙にも悪い沈黙にもしない。それだけ。
沈黙を「成約の合図」と読めば、都合よく待つことになる。「拒絶」と読めば、焦って説明を重ねることになる。どちらも、相手がまだ言っていない答えを先に決めていた。
Scene 03
森川は、断り文句の手前まで通話を巻き戻した。
リードクラフトへ戻ると、インサイドセールスの森川が通話記録を聞き直していた。画面にはアポ件数ではなく、短いメモが並んでいる。
森川の通話メモ「今は大丈夫です」の前に、少し間があった。
資料名を伝えた直後は返事が速かった。日程を聞いたあとに止まった。
森川
断られた言葉だけ残すと、全部同じ「見込みなし」になるんです。
でも、その前を聞くと、話題が合わなかったのか、答えを探していたのか、まだ分からないことが違います。
森川は、間があった相手に必ず切り返すわけではない。電話の向こうでは、資料を探しているのかもしれないし、別の人に呼ばれたのかもしれない。通信が途切れただけかもしれない。
ミナト
じゃあ、沈黙を見つけても、すぐ改善点にはできないんですね。
森川
はい。だから、断り文句と、その前にこちらが何を聞いたかを一緒に残します。
次の電話で、聞き方を一つだけ変えて確かめるために。
ミナトは、高瀬から渡された観察ノートを思い出した。話す内容ではなく、相手が言ったことを書くノート。森川はそこに、言葉が出る直前の変化まで残していた。
Scene 04
四枚の付箋には、同じ沈黙が書かれた。
仮編集室で商談記録を読み返すと、カナエは四枚の付箋を並べた。
「考えている」「思い出している」「質問が分からない」「答えたくない」。どの付箋にも、同じ沈黙の記録が置けてしまう。カナエは四枚すべての右上に、小さな疑問符を書いた。
カナエ
今ある記録だけでは、どれも選べませんね。
ミナト
待ったことまで正解にすると、また先に意味を決めますね。
前の質問と見えた動き、そのあと本人が話したことを一緒に残します。
カナエは付箋を剥がし、商談記録の余白を空けた。時間が必要か、質問を言い換えるか、今日は答えないか。それは次の場面で、相手へ確かめるための余白だった。
Scene 05
黒線の上に、高瀬の親指が置かれた。
その日の終わり、ミナトは高瀬の商談ノートを返そうとした。開いたページの端に、一行だけ黒く伏せられた箇所があることに気づいた。
顧客名らしい。その下には、短く「話しすぎた」と書かれ、別の行には「待つことを正解にした」とあった。前後の詳しい経緯は書かれていない。
ミナト
高瀬さんも、最初から待てたわけじゃないんですか。
高瀬はノートを受け取り、伏せられた名前を親指で隠した。
高瀬
待てなかったこともある。待つことを、うまく見せるために使ったこともある。
それで、失ったお客様がいる。
ミナトは続きを待った。けれど高瀬は、その日はそれ以上を話さなかった。
ミナト
……話せる時に、聞かせてください。
高瀬は小さくうなずいた。
高瀬がノートを閉じるまで、親指は黒線の上に置かれたままだった。


