碧海メディカル管理本部で、導入案と現行継続案の二つの同形トレイを同じ向きに並べ、残る不確実性を比べるソウタ、カナエ、岡部、瀬川
変える側だけに説明責任を置かず、変えない側にも同じ期間・証拠・未確認を置く

Season 4 / Episode 08

導入しないことで起きること

延期は、決めないことではなかった。岡部が現行継続へ署名した午後、いつもの連絡は届き、二つの確認記録だけが食い違った。

Scene 01

延期なら、今日の決裁は要らないのか。

碧海メディカルサポートの経営会議室に、同じ厚さのフォルダが二冊あった。

一冊は「一施設での限定導入」。もう一冊は「現行継続」。後者の決裁欄だけが空白だった。

対象は、承認済みの院内事務手順と職員研修の配信である。診断、治療、投薬、医療機器制御には使わず、患者情報も扱わない。

前日のでは、限定導入で異常を疑った時、誰が止め、何へ戻し、どの記録で復旧を確かめるかまで残した。それでも専務取締役の岡部 信之は、承認を見送っていた。

対応表は理解した。ただ、万一の評判リスクを考えると、導入時期は延期した方がよいのではないか。

岡部が前日に送った連絡

岡部が恐れているのは、変更直後の誤配信と二重管理だった。復旧中の説明が施設ごとに違えば、「なぜ始めたのか」という問いを経営が受ける。

岡部

現行が安全だと言うつもりはありません。

ただ、新しい依存を増やす決定は、今日はしない。

岡部は限定導入のフォルダを閉じた。現行継続の方には触れなかった。

その時、業務管理部から連絡が入った。職員研修の申請手順が承認され、午後から一施設の対象部署へ改訂版を届けるという。どちらの案を選んでも、今日の配信を誰かが引き受ける。

ソウタ

今日の更新は、どの案で動かしますか?

現行を選ぶなら、いつまでですか?

岡部の手が、空白の決裁欄で止まった。

Scene 02

現行の負担を、怖い数字へ変えない。

ディシジョンラボの瀬川 圭は、現行運用の記録を持ってきていた。

共有フォルダへ改訂版を置き、メールで知らせ、電話で急ぎの確認を取り、確認結果を表計算へ戻す。経路が複数あるため、一つが止まっても補える。一方で、版と確認時刻を原記録へ戻して照合する仕事は残る。

瀬川の初稿では、八週間に見た手作業が十二か月へ延ばされていた。再送はすべて「未達」と数えられ、最悪時の損失だけが太字になっていた。

瀬川

現行の仕事を空欄にすれば、延期だけが無傷に見えます。

経営には、続ける負担も示すべきです。

カナエは現行の負担を残し、観察していた八週間の終わりと、その先の仮定の間に二本の線を引いた。

カナエ

ここまでは観察、ここからは仮定ですね。

導入側にも同じ条件を置けないなら、太字にはしません。

瀬川は年間損失のページを抜いた。現行の手作業まで消すのではなく、見た期間へ戻すためだった。

瀬川

では、同じ一施設、同じ三週間で比べましょう。

それでも残る差なら、岡部さんの判断材料になる。

岡部は、現行の経路が持つ代替性も同じ紙へ戻すよう求めた。延期の理由を守ったまま、負担だけを隠さないためだった。

ソウタ

三週間で、何が違えば選び直しますか?

瀬川もカナエも答えなかった。空白の持ち主は、岡部だった。

Scene 03

岡部が、期限つきの現行継続を選ぶ。

二つのフォルダは、一施設、同じ部署、三週間へそろえられた。

限定導入なら、設定、訓練、二重管理が新しく生じる。現行継続なら、共有フォルダ、メール、電話、表計算を業務管理部がつなぐ。どちらにも、正しい版への到達、確認の食い違い、担当者の作業、問い合わせ、まだ測れていない費用を置いた。

岡部は先に、限定導入の欄を読んだ。移行訓練を終え、停止時に現行へ戻せると確認できるまでは、開始しない。

次に、現行継続の欄を読んだ。更新のたびに版の到達時刻と確認記録の一致を業務管理責任者が見る。承認済み版と確認記録の食い違いが二時間を超えるか、誤送信の疑いが一件でも出たら、現行継続の評価を止める。

その時は限定導入へ自動で切り替えない。独立した連絡経路で配信状態を確かめ、関係部署を招集し、現行の修正、限定導入、別の方法を改めて選ぶ。

岡部

三週間は、現行の経路を続けます。

私が見直し日と中断条件を引き受ける。

岡部は、現行継続の決裁欄へ日付と名前を書いた。業務管理責任者へ電話し、午後の更新から四つの時刻を残すよう指示した。承認、公開、対象部署の受信、確認記録が一致した時刻である。

岡部は署名した現行継続のフォルダだけを業務管理責任者へ渡した。限定導入は机に残った。

Scene 04

選んだ午後、いつもの経路が動く。

午後一時、申請手順の改訂版が承認された。

業務管理部は現行どおり、共有フォルダへ版を置き、対象部署へメールを送り、急ぐ部署には電話した。配信先は合っていた。担当者も新しい版を開いた。

午後一時三十五分、電話では「確認済み」と返った。表計算には、前の版を確認した時刻が残っていた。

メールは届き、電話もつながった。それでも二つの記録を一緒に読めば、どちらを現在の確認とするかは決められなかった。

業務管理責任者は決定記録を開き、元のメールと電話メモへ戻った。午後二時二十分、表計算の転記時刻が直り、承認済み版への到達と確認がそろった。患者情報を使わず、診療・治療判断を対象としない事務更新だった。それでも、照合する人と時間は要った。

岡部は、四つの時刻を自分で読んだ。

岡部

現行の経路で、改訂版は届いた。

同時に、記録の差は四十五分残った。

ソウタ

これは、どちらの結論に使いますか?

岡部

まだ、導入を決める理由にはしません。

現行を無傷と書く理由にも使わない。

岡部は「到達した」と「照合が要った」を別々の欄へ書いた。三週間後に比べる最初の一件になった。

Scene 05

見直し日と、公開対談の空席が残る。

岡部は、現行継続のフォルダを決裁棚へ入れた。表紙には、三週間後の日付がある。限定導入のフォルダは、その隣でまだ閉じていた。

瀬川は、年間損失を抜いた資料を見ながら口を開いた。

瀬川

行動しないリスクを示すことは、判断材料か、恐怖訴求か。

この論点を、公開の場で検討できませんか。

岡部は、碧海の未決案件を使うことを認めなかった。名称や数字を外しても、時期、役割、出来事の組み合わせから関係者を推測される。施設、担当者、実数、契約、未確認事項を公開する権限もない。

岡部

この案件を、成功例にも失敗例にもしないでください。

別の架空例を作り、公開範囲を承認できるなら検討します。

瀬川は企画書から碧海の名称を消すのではなく、事例欄そのものを破棄した。新しい架空例を一から作ると書き直した。

行動しないリスクを示すことは、判断材料か、恐怖訴求か。

導入・非導入を同じ範囲で比べた後、誰が期限と結果を引き受けるのかを検討する。

公開対談の企画メモ

ソウタ

三週間後、最初に何を見ますか?

岡部は、決裁棚の表紙を指した。到達、記録の差、照合作業、中断条件。四つがそろわなければ、現行を続けるとも、限定導入へ進むとも書かない。

会議室の予定表には、見直し日が入った。

公開対談の登壇者欄には、瀬川、カナエ、ソウタの名が並んだ。その隣の一席だけは、まだ空いていた。

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