Scene 01
『かもしれません』にしても、戻る道は増えなかった。
共同セミナーの前半が終わっても、最後のスライドだけはスクリーンに残っていた。
会場は木の壁に沿って椅子が並ぶ、小さな研修室だった。営業担当者のほかに、社内研修を作る人、記事の出典を確認する人も来ている。後半では、午前の解説を明日の現場へどう持ち帰るかを扱う予定だった。
カナエのセミナー資料相手に選択肢を残すと、自分で選んだ納得感につながります。
後半を一緒に担当する安西 美和が、前列から手を挙げた。株式会社ヒューマンアークの主席研修コンサルタントで、今日は共同登壇者でもある。
安西
現場へ持ち帰りやすい言葉です。
どこまでが研究の結果でしょう。
カナエは、選択が自律性を支えるという背景を話そうとした。安西は遮らずに聞き、スクリーンの「納得感」を見た。
安西
研究の対象は誰でしたか。
何と比べ、何を測りましたか。
法人営業と購入後の納得も、同じ研究に含まれますか。
カナエが脚注を開く。そこには論文名ではなく、「自己決定理論を参考に編集」としか書かれていなかった。後方席の鳴海も、手元の確認用紙を閉じなかった。
鳴海
この脚注からは、元の資料へ戻れません。
「納得感」を測った記録も見当たりません。
カナエは、その場で語尾を直した。
最初の修正相手に選択肢を残すと、自分で選んだ納得感につながるかもしれません。
会場の研修担当者が、二つの文を見比べた。
会場の研修担当者断定でなくなったのは分かります。
でも、研究で分かったのが選択肢なのか、納得感なのか、営業での効果なのかは、まだ読めません。
弱い語尾に替えても、一文の中で混ざったものは分かれなかった。
前話「契約のあとに残るノート」で、編集室は売れた後の事実を元の記事へ戻す方針を決めた。今度は、記事が借りている心理学の言葉から、元の研究へ戻る道が切れていた。
カナエは修正版を公開用にはせず、変更履歴へだけ保存した。後半開始まで、あと二十七分だった。
カナエ
語尾ではなく、一文の構造へ線を引きます。
研究で見たことから、先に戻ります。
Scene 02
『納得感』を、研究の層から外す。
休憩に入ると、カナエは演台脇の透過シートを三枚取り出した。元の一文を上に置き、その下を「研究」「現場仮説」「実践例」に分けた。
安西は欄を埋めなかった。代わりに、最初の問いを短くした。
安西
選択の研究で、実際に測った言葉は何ですか。
鳴海は、カナエの端末に一次資料を開いた。Patall、Cooper、Robinsonによる41研究のメタ分析は、子どもと成人を含む多様な場面で、参加者に選択を与えた条件と、内発的動機づけ、努力、課題成績、知覚された有能感などの結果をまとめている。効果は条件によって異なった。
このメタ分析の対象には、法人営業の提案比較、最適なプラン数、成約率、購入後の納得感は含まれていない。
カナエは、一枚目に「選択を与えた条件と、いくつかの動機づけ・努力・課題結果との平均的な差」と書いた。その下へ「納得感」と続けかけ、ペンを止めた。
カナエ
ここには書けません。
この研究で測った結果ではありませんでした。
カナエは「納得感」を一枚目から外した。二枚目には、編集室が次の営業場面で確かめたい予想を書いた。
現場で試す仮説更新・縮小・終了を同じ資料へ置くと、顧客が希望や懸念を訂正しやすくなるかもしれない。
三枚目には、前話で起きた一件だけを置いた。更新商談で三案を示し、顧客が縮小継続を選んだ。選べたという観察は残るが、三案が納得を高めたとも、別の顧客にも同じ結果が出るとも書かなかった。
鳴海
一枚目は、研究で観測した範囲です。
二枚目は、営業へ移した時の予想です。
三枚目は、一件で起きたことですね。
カナエは三枚を強い順に並べなかった。役割が違うまま、同じ主張ID「CLM-001」へ結んだ。自己決定理論の定義と研究背景は「自己決定理論」へ戻し、セミナーでは、この一文が借りられる範囲だけを残した。
元の一文は消さず、変更履歴の一番上に置いた。何を言いすぎたのかが見えなければ、次の修正も同じ語尾の交換で終わるからだった。
Scene 03
大きな研究の数字ほど、短い結論には収まらない。
鳴海の文献確認メモには、題名とDOIだけでなく、対象、方法、比較、測定した結果、限界、訂正・撤回・版更新の確認日を記す欄があった。確認できない欄は、空白のまま残されていた。
研究報告に何を記すかは、米国心理学会の量的研究報告基準(JARS)にも整理されている。カナエは、設計、対象、測定、分析、結果へ戻るための手掛かりとして参照した。JARSに沿って項目を読めても、そこから研究の質や営業での効果までは判断できない。
カナエが以前の記事用に作ったメモには、「大規模追試でも、心理学の効果は半分ほどしか再現しなかった」とあった。
鳴海は、その一文へ赤線を引かなかった。元の論文を開いたまま、数字の欄だけをカナエへ返した。
2018年のMany Labs 2は、28の古典的・現代的な心理学知見を、36の国・地域、125サンプル、合計15,305人で追試した。通常の統計的有意性を基準にすると、元研究と同じ方向で有意だったものは15件だった。比較可能な効果の多くは、元研究より小さかった。
カナエ
二十八件から、心理学全体の割合にはできません。
「再現した」と数える基準も、ほかにあります。
カナエは古い要約を消し、選ばれた28知見と一つの判定基準の結果だと書き直した。再現しなかった結果だけで元研究を虚偽と決めず、一度有意だった結果だけで条件を越えた法則にもしなかった。
前列の参加者が、書き換わったカードを読み返した。
前列の参加者「心理学の半分が誤り」と読める数字ではないんですね。
どの知見を、どんな基準で比べたかまでが、このカードの範囲ですね。
題名、抄録、引用数だけで本文の手続きを補わない。本文や補足資料で確認できない時は、主張を狭める。事前登録、公開データ、資金源、利益相反も、ある・ないだけで合否を決めず、読者が検証条件を確かめる材料として残す。カナエのカードは、結論を強くするためではなく、強く言えない場所を見失わないために使われた。
Scene 04
同じ理論名でも、三つの文は同じ身分ではなかった。
後半のセミナーで、カナエは予定していた講義を止めた。スクリーンへ、記事や研修で使われがちな三つの文を出した。
公開ワークで比べた三つの文選択肢を残すと、納得して決められる。
沈黙すれば、相手は本音を話す。
三つに絞れば、認知負荷が下がる。
参加者には、理論名を当てるのではなく、研究で測った結果、営業で試す予想、一件で起きたことのどこへ置けるかを考えてもらった。
「沈黙」の文へ、研究結果の印を付けた人がいた。カナエは正解を示さず、セミナー資料から戻れる出典を一緒に探した。見つかったのは、質問のあとに先輩が待ち、顧客が最初の返答を言い直した一件の記録だけだった。
カナエ
この資料の確認範囲では、直接の研究を特定できません。
待ったあとに言葉が増えた一件は残せます。
でも「本音」や、万能な秒数には変えられません。
場面の全文は「沈黙を急がなかった先輩営業」へ戻せる。参加者は研究結果の印を外し、「一件の観察」と書き換えた。
別の参加者は、「三つなら認知負荷が下がる」を研究の欄へ置いた。心理学用語が付いているので、数字にも根拠があると思ったという。
カナエ
以前の私も、同じつなぎ方をしていました。
認知負荷は研究上の概念です。
ただ、「三つ」は私たちの編集上の目安でした。
研究背景は「認知負荷」にある。しかし、そこからすべての営業に最適な情報数を三つとは決められない。正確な条件を削らず、結論、相手へ返す質問、必要な補足へ動かした一件は「わかりやすい営業説明」へ戻した。
最後に残った「選択肢」の文には、研究と現場仮説の印が重なった。参加者は、研究に選択の知見があることと、三つの料金プランで成約が上がることは、同じ主張ではないと線を分けた。
三つの文は、どれも全面的な正解や誤りにはならなかった。出典と測定範囲へ戻ると、残せる部分と、次に試す部分が別々に見えた。
Scene 05
『売れたか』を残したまま、一つの表現だけを原因にしない。
会場の営業責任者が、腕時計を一度見てから質問した。
会場の営業責任者研修後は、成果も報告しなければなりません。
結局、売上で確かめるしかないのではありませんか。
売上や成約は外せない。ただし、一つの言い方と売上の間には、価格、商品適合、顧客の事情、担当者、競合、時期、その後の利用がある。
B2B営業の成功要因を扱った139研究のメタ分析も、営業担当者、組織、顧客、環境にまたがる要因と、測定方法や文脈による違いを検討している。この研究から、一つの心理表現がこの場面の売上を生んだとは判断できない。
カナエは「売上」を消さなかった。確認計画の最初の欄へ戻し、その隣に、相手が説明を訂正したか、保留や別案を選べたか、後日に変更したかを置いた。
カナエ
成約は記録します。
同時に、何を変えたかも一つに絞ります。
違う理由が残るなら、効果とは呼びません。
営業責任者は、自社研修の一文を画面へ出した。
参加者が持参した研修資料選択肢を残すと、受注率が上がります。
カナエは代わりの文を書かなかった。どこまでが研究で、どこからが自社で確かめる仮説かを尋ねた。参加者は、Patallらの研究で受注率を測っていないことを確認し、自分で二行へ分けた。
参加者が修正した研修資料選択を与えた条件と、いくつかの動機づけ・課題結果との関係を調べた研究がある。
営業では、選び直せる提案が訂正や保留を残すかを試す。受注率への効果は、この資料では未確認である。
会場の営業責任者売上を見ないのではなく、研究が答えていない売上を、研究の結果に足さないということですね。
小さな現場確認を行う場合は、対象場面、変える一つ、観察する事実、別の理由、見直す日、不利益が見えた時の停止条件を先に残す。無作為割り付けのない前後差を、表現の因果効果とは呼ばない。
録音や個人情報が必要なら、利用目的と適切な根拠、必要な説明・同意、閲覧権限、保管期間、訂正・削除、二次利用の禁止を決める。予定件数より、顧客の不利益を止めることを優先する。
心理学を営業へ持ち込む時の判断と停止は、「営業心理学の倫理と使い方」で引き続き確かめられる。
Scene 06
参加者の印が、三か所に分かれた。
終了五分前、カナエは最初のスライドをもう一度映した。元の一文は変更履歴に残し、表に出す文だけを差し替えた。
共同セミナーで修正した資料研究では、選択を与えた条件と、いくつかの動機づけ・努力・課題結果との平均的な差が検討されています。対象や条件で効果は異なります。
営業では、相手が訂正・保留・別案を残せる提案になるかを確かめます。成約や購入後の納得を直接保証する研究ではありません。
カナエは、前半と同じ研修担当者へ資料を渡した。今度は説明せず、どこから研究ではなくなるかだけを尋ねた。
参加者は、一文目の研究対象と結果へ一本目の線を引いた。二本目は「営業では」の前に置いた。更新商談の縮小継続例には、別の色で「一件」と書いた。
会場の研修担当者ここまでが、研究で見た範囲です。
訂正しやすくなるかは、次に試す予想です。
縮小継続は一件の記録で、納得や成約の証明ではありません。
鳴海は、脚注から原典へ戻れることと、研究カードの確認日が入っていることを確かめた。安西は、参加者が引いた三本の線を見てから、手元の資料を閉じた。
安西
この二行を、次の研修資料にも使います。
元の一文は、比較用に残してください。
カナエは、前半で「かもしれません」と直した版も履歴から消さなかった。
カナエ
正確に書くと、明日使えないと思っていました。
それで、先に助言へ丸め、理論名をあとから添えていました。
今日は、分からない部分を消さず、三つの役割へ分けました。
片づけを終えた頃、鳴海の端末に一通の連絡が届いた。差出人は、前日に共同企画を送ってきたディシジョンラボの瀬川 圭だった。
瀬川から届いた登壇申出研究条件の整理だけでなく、現場で結果が出た事例も同じ場で議論したい。次の機会があれば、私も登壇します。
数字も施策の詳細も、まだ添えられていない。カナエは返信欄に、成果という数字の定義、比較対象、契約後へ残った事実を順に尋ねた。送信する前に、三つの答えがまだ空欄であることを確かめた。
マイ商談ノート
今日、残しておく候補
気になった項目を、この端末のブラウザへ保存できます。ログインや送信はありません。
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